第五福竜丸被爆事件(ビキニ事件)の真相

【1】 事件のあらまし

1954年(昭和29年)3月1日午前3時50分、
静岡県焼津漁港の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」
(乗組員23名)太平洋・マーシャル諸島の
ビキニ環礁近くで、米国の水爆実験による死の灰を
浴びる被爆事件が起こった。

米国は1945年世界初の原爆を実用化し
日本に二種類を投下、以後米国の核独占が
数年続くがソ連が1949年に原爆を開発し
その勢いで1953年には水爆まで実用化する。
ソ連に遅れまいと焦った米国は広島原爆の
千倍の威力を誇る水爆実験を太平洋の
マーシャル諸島で断行、この実験で危険地帯から
離れていた日本の漁船第五福竜丸も被爆した。

水爆実験3時間後の午前7時頃、白い灰が
雨といっしょに降り始めた。
白い灰は第五福竜丸の甲板に足跡が残るぐらい
降った。
第五福竜丸の船長は事前に水爆実験の通知を
受けており安全地帯にいたが被爆した。
被爆後日本への帰港コースを取るが船長の
判断でSOSは発信しなかった。
SOSを発信した場合は米国の飛行機や
艦艇により証拠隠滅の為に撃沈射殺又は
拉致されると船長達は考えており低速5ノット
(時速9キロ)で3000キロ以上も離れた
日本をめざしたのだった。
被爆後2日目から乗員達に異変がおこり、
顔色が変色し、髪が抜けたり頭痛,吐き気,
目まい,下痢等の症状が出た。
それでも第五福竜丸は電波を発信せず航行を
続け母港の焼津港についたのは3月14日で
被爆後2週間を経過していた。

日本では昭和20年の原爆に次ぐ核被害に
大騒ぎになり乗員23名は緊急入院、船倉の
冷凍マグロからも異常な放射能値が出た。
23人の乗組員は二つのグループに分けられ、
入院して治療を受けるが,その年の9月に
無線長・久保山愛吉(当時40歳)が
放射能症の悪化により死去、第一の犠牲者と
なった。
残る22人は,とりあえずはその後無事退院
するものの,後遺症に悩まされ,死の恐怖と
隣り合わせの人生を送ることを余儀なくされる。
2003(平成15年)年までに亡くなった
乗組員は計12名で,うち10名の直接の
死因は肝臓ガン、あるいは肝機能障害に
よるものであったとされている。
事件から50年も経過すれば死が全てが放射能の
影響によるものなのかは判別できない点も
あるのだが。。。。

次ページに続きます。

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