【日本人が知らなきゃいけない歴史】忘れてはならない終戦後の悲劇。小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸、三船殉難事件

この状況に日本政府は、樺太の港に船を集め、

人々の引揚げを促しました。数万の人々が

港に押し寄せる中、大津敏男樺太庁長官の判

断で、高齢者・女性・子供を優先することにし、

大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の

3隻の引揚船に分乗させ樺太を脱出、

北海道を目指します。

まず小笠原丸(1400t)には約1500人が乗船し、

大泊から稚内に到達しました。

そこで約半数が下船し、約700人を乗せて

小樽に向かう途中、8月22日の午前4時20分頃、

増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を

受けて、撃沈されます。乗員乗客638名が死亡、

生存者は僅か62名でした。なお浮上した

潜水艦は、無抵抗の人々に銃撃を加えています。

続いて午前5時13分頃、大泊から約3600人を

乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸

(2700t)が、留萌北西沖に差し掛かった

ところ、突然に魚雷攻撃を受けました。

同船は回避を試みますが、右舷に一発命中

します。その直後、二隻の潜水艦が浮上し、

銃撃を加えてきました。

しかし第二号新興丸は単なる輸送船ではなく、

12cm単装砲2門、25mm機銃を連装4基、

単装6基を備えた特設砲艦でした。

攻撃を加えてくる潜水艦に対し、民間人の

協力を得て反撃します。第二号新興丸の

攻撃により、潜水艦一隻が被弾し、

潜航したものの大量の油が海面に浮いた

といわれます。

反撃と、通報によって飛来した日本軍の

水上偵察機の掩護もあって、潜水艦は

それ以上の攻撃はせず、第二号新興丸は

留萌港にたどり着くことができました。

しかし、第二号新興丸の犠牲者数は

死者・行方不明者は400余人とされ、

遺体が確認できただけで298人であった

ともいわれます。

次ページに続きます。

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