こうしてみたとき、近代国家の誕生は、それまで「名なし」
で差し支えなかったこの地のムスリムに、ビルマ人が
圧倒的多数の社会で「一人前」と扱わせ、自分たちを
「(外国人ではなく)ビルマ国民のうちの一部の集団」
と認めさせる必要に直面させたといえるでしょう。
これが「ロヒンギャ」誕生の転機となったのです。
人道危機の連鎖反応
独立後のビルマでは、ロヒンギャ出身議員が誕生するなど
、両者の共存の道が開けたかにみえました。
しかし、1962年に軍が政権を握り、「ビルマ式社会主義」を
推し進めるなか、ビルマ人優遇策が強化され、
それと並行して少数民族への圧迫も強まっていったのです。
このなかには、沿岸部で暮らすロヒンギャだけでなく、
タイや中国との国境沿いの山岳地帯に暮らす、
キリスト教徒中心のカチンやカレンなども含まれます。
分離独立を求めるカチンやカレンの強硬派は、
麻薬取引で軍資金を調達し、ミャンマー軍との
戦闘を激化させました。
ビルマ人とそれ以外の少数民族の間には、歴史的な不信感が
あります。
それは植民地時代に英国が、この地の大多数を占める仏教徒
ビルマ人を支配するために、インド系をはじめとする
ムスリムを商人層として、キリスト教に改宗させた山岳系を
兵士や警官として、それぞれ利用したことによります。
この関係は、独立後に逆転。
人口で圧倒するビルマ人が少数民族を支配する構図に
入れ替わったのです。植民地時代に生み出された遺恨が、
その後の民族間の対立に発展した事例は、大虐殺で知られる
ルワンダをはじめとするアフリカと同様、スリランカなど
アジアでもみられ、ミャンマーもその一例といえます。
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