「父親は石炭マンとして、
他の地方から軍艦島に入って来たが、
生活レベルが完全に異なっていました。
当時はまだテレビが本格的に普及する前だったが、
軍艦島は、ほぼすべての家庭にテレビはもちろんのこと、
洗濯機や冷蔵庫もありました。仕事は大変だったが、
父親の給与は、他のところよりもはるかに
高かったことを覚えています。商店街はもちろんのこと、
パチンコなどの娯楽施設も十分にありました。
併せて1957年に売春防止法が施行される前までは、
『遊郭』がありました。父親の話によると、
軍艦島には3カ所の遊郭があり、
そのうちの一つは朝鮮人専用でした。」軍艦島を10年以上研究し、
元島民らの証言をもとにして「遊郭」の
存在が確認したのが、「軍艦島入門」という本を書いた
「クロサワ」さんだ。
「クロサワ」さんはこう言う。
「大正時代(1912〜1926)には軍艦島には
遊郭が七箇所もあり、そこには女性が20人ほどいました。
一箇所に三人ぐらいの女性がいたわけです。
以降、昭和時代(1927〜1945)になって、
軍艦島には、島の南に位置する南部の商店街に
三箇所の遊郭が存在することになります。
1933年、長崎新聞は、軍艦島の遊郭の一つである
「ホンダ」(本田、売春宿の名称)に関するものとして、
『石炭粉にまみれた鉱夫たちの疲れや心身を
慰労してくれる存在。これ(遊郭の存在)が
端島(軍艦島)のもう一つの断面である。』
というような内容で記事を載せました。
こういった『ホンダ(本田)』、
そして『モリモト(森本)』
という遊郭が日本人向けであり、
『ヨシダ(吉田)』という名前の遊郭は朝鮮人専用でした。
ちなみに『ヨシダ(吉田)」で働いていた
女性は全員が朝鮮人女性でした。」
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