漢江の奇跡
韓国戦争の後、完全に崩壊した韓国を立て直すために、
朴正煕大統領は、東奔西走先進国を周り、
「韓国は自由民主主義陣営の最前線であり防波堤です。
このままでは共産主義に潰されてしまいます。
助けてください!」
と切実に訴え、援助と支援を要請してきましたが、
返ってきたのは空しいこだまだけでした。
残されたのは、戦争で荒廃した国土と、
飢餓に苦しむ人々、GNPが100ドルにも満たない
(約76ドル)小さな国、韓国だけでした。
朴正煕大統領はここで大きな決断をします。
そして韓国国民に訴えかけました。
「我々に残されたのは焦土化した土地と飢えた人々だけだ。
目覚めた韓国国民に言いたい、
この国を救うために手を貸してくれ」
これを受けて、我々の祖父祖母世代の方々は、
子どもたちにご飯を食べさせるために、
自ら進んでベトナム戦争に参戦し、
ドイツの鉱山労働者や看護師として派遣されました。
これに対する補償として、米国は韓国に約10億ドルを
支援(1964年から1973年、ベトナム派兵間総軍事支援額)。
西ドイツでの年間5000万ドルの韓国鉱夫と
看護師への給料を担保に、米国、西ドイツ、イギリスなどの
外資誘致に成功します。
しかし、米国の支援は文字通り、
ベトナム戦争のための軍事的支援が相当部分であったため、
外資誘致で始めた第一次経済開発五カ年計画
(1962~1967)も、エネルギー供給と食糧確保、
荒廃林地復旧のような基礎的インフラ再建に
ほとんどが使われ、国家としては依然として
赤信号が灯っていました。
これに対し朴正煕大統領は、国家基盤を固めるため、
日本との韓日協定を結んで国交正常化します(1965)。
そして、日本から無償資金3億ドル、
有償財政資金2億ドル、その他商業借款3億ドル
プラスアルファで、10億ドルを越える資金と、
技術的支援を受けることになります。
これを踏み台にして、第ニ次経済開発五カ年計画
(1967~1971)を実行し、基幹産業である重工業を起こし、
以後1988年にオリンピック誘致まで成功させ、
海外メディアの間で「漢江の奇跡」と呼ばれる
経済成長を成し遂げたのです。
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