【韓国】 日本の代わりに私たちが分断された理由~日本の分割統治案はなぜ実施されなかったのか?

なぜ敗戦国の日本ではなく朝鮮が分断されたのだろうか?韓民族の誰でも一度ぐらいは持つ疑問だ。8月15日を解放の記念日として記念するには、その日から始まった分断がとても悔しいからだ。民族の言葉と文字は取り戻したが、千万家族が生き別れ、全土が世界的な戦場になった歴史が悔しくて今日まで続く緊張と葛藤が悔しい。

この歴史の皮肉は偶然だったのか?最近の研究で秘密解除記録を通じて当時の状況を明らかにしている。戦争に勝利した連合国は敗戦国ドイツのように日本を分割占領することにした。1945年6月、ドイツの分割統治が始まり、日本が次の番だった。7月、ポツダム会談で米・英・中・ソ連合国は日本分割占領に合意した。

米国が関東と関西、ソ連が北海道と東北、英国が九州と中国、中国が四国をそれぞれ占めて東京はベルリンのように4カ国が分割統治する占領計画が議論された。8月13日、米国務部は「日本占領のための国家別武力構成案」を用意した。日本分割計画はなぜそのまま施行されず、とんでもないことに朝鮮が代わりに分断されたのだろうか?その数日の間にいったい何が起きたのだろうか?最後のひとりまで戦うと言っていた日本はなぜ急いで8月15日に降伏したのか?

これまで主に原爆投下のせいとされてきた。しかし、在米日本学者、長谷川毅教授は原爆投下よりソ連の参戦がさらに決定的だったという。ソ連が参加する日本分割を避けて天皇制を守るためだったという。原爆のせいで降伏したという主張は米国の日本列島単独占領を後押しした(<終戦の設計者>、メディチメディア)。

一方、小代有希子教授によれば日本軍部が米国とソ連の衝突地点を日本列島ではなく、中国大陸か満州、朝鮮になるべく誘導しようとしたという。敗戦後、日本が再起するのに有利な状況を作るためだ。朝鮮の38度線付近も日本軍が挙げた有力な米ソ対立地点の一つであった。ソ連は8月9日、開戦するやいなや満州と南サハリンに進撃し、一日で咸鏡北道(ハムギョンブクド)雄基(ウンギ)を占領した。

翌日10日、日本は降伏の意思を知らせてきた。米軍少佐ディーン・ラスクは一夜の間に朝鮮の38度線を分割占領線に提案した。ソ連軍の北海道上陸は時間の問題であった。日本天皇は8月15日「終戦(敗戦でも降伏でもない)宣言」をした。日本が最も恐れたソ連が加わった日本列島分割占領を避けられる程、速やかな降伏だった。

しかし、逆説的にソ連を東アジアに引き込んで、原子爆弾のような人類の災難をもたらしたのは遅すぎた降伏だった。1945年2月、ヤルタで連合国首脳がソ連の対日戦争参戦を議論している時、日本の近衛文麿元総理は「敗戦不可避論」を主張した。敗戦後、共産革命を避けて天皇制を維持するには速やかに英米側と交渉し、戦争終結を推進するということだ。昭和天皇はそれでも終戦交渉を有利にするには敵に確実な打撃を与えなければならない、と言った。そして始まったのが4月の沖縄戦であった。

「出血作戦」と言う。目的は戦闘で勝つことではなく、敵の出血を最大限にして降伏条件を緩和することだった。「出血」は相対して戦う日本軍とすべての民間人にも要求された。神風自殺特攻隊も投入された。日本本土を守る「防波堤」「捨て石」にされた。沖縄戦は残酷だった。直接戦闘をした両側軍人の死傷者も多かったが、住民46万人中12万人が死んだ。緊急動員された1万人に達する朝鮮人「軍部」と「慰安婦」も共に犠牲になった。

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